そして対馬沖２日目の夜は明けた。
「……アリョールちゃん、目がさめたかい」
「……あ、ニコラおばさま」
アリョールはまわりを見渡した。
……なにか、ちがう。
なにがちがうんだろう。
すこし考えて気がついた。
ひどく艦が少ないのだ。きのうまであんなにいたお友だちが、今は全然いない。
アリョールは急に心細くなってしまった。
「ねえ、みんなはどこ？スワちゃんは？アレクちゃんは？」
ニコラおばさんが言いにくそうに言った。
「……アリョールちゃん、きのうは大海戦をやったんだよ。覚えていないのかい？」
そうだった。アリョールの脳裏に、きのうのとってもとってもこわい海戦がよみがえった。思い出すだけで泣きそうになった。
「でも、でも！」
「アリョールちゃん、今はあたしとアリョールちゃん、それにアプラクシンちゃんとセニャーヴィンおばさんだけさ。あ、イズムルードちゃんもいるかね」
「でも、でも、ナヴァリンおばさんは？シソイ姉さまは？ゆうべ、いっしょにヴラディバストークに行こうね、って言ったでしょ？まっすぐ北２３度東に歩けばいいんだから大丈夫だよ、って言ったでしょ？」
「ナヴァリンにシソイかい……。さあ、どうしたんだろうねえ……」
――みんな、いなくなっちゃったんだ。
みんな。
みんな。
じわあ、と涙があふれてくると、もうだめだった。アリョールはわんわん泣き出してしまった。
「アリョールちゃん……」
ニコラおばさんが困った顔でアリョールを眺めていると、その背後から投げやりな、とげのある言葉が飛んできた。
「うるさいねえ、めそめそする奴見てるとムカつくんだよ」
イズムルードだった。
アプラクシンがきっとなって言い返す。
「あんた、よくこんな時にそんなかわいそうなことが言えるね！ちっとはやさしくしてあげたらどうなの！」
「へん、かわいそうと来たかい。かわいそうってんなら、うちら全員がかわいそうなんじゃないの？」
「な……」
「あんたたち、やめないかい！」
その時だった。左舷後方の水平線に、煙が見えたのは。
しばらくすると煙はさらに増え、左舷前方から後方にかけてアリョールたちを取り囲むように並んだ。
ハッとなってイズムルードが様子を見に行った。すぐ戻ってくる。顔色が変わっている。
「おばさん、だめだ。みんな日本の艦だよ。早く逃げないと囲まれちゃうよ」
セニャーヴィンが疲れ切った顔で答える。
「逃げる……？あたしはもうぼろぼろだ。もとから逃げ足も速い方じゃないし、足も痛めちゃってる。逃げようったって逃がしちゃもらえないよ」
「でもさ、このままじゃみんな沈められちゃうよ！」
押し問答を繰り返す間にも、日本艦隊は包囲の環を閉じつつ接近してきていた。大型艦が12隻。きのうあれだけ戦ったのにもかかわらず、一隻も欠けていない。傾いたり、燃えたりしている艦もない。まるで新品の艦隊のようだった。
「どうすんのさ、おばさん！」
イズムルードがニコラおばさんを見る。みんなの視線がいっせいにニコラおばさんに集まった。
おばさんは静かに言った。
「今戦って、勝てると思うかい」
静寂。
「そうだよね、きのうみんながそろって戦っても、相手にはかなわなかった。今ここにいるのはあたしたちだけだ。これで勝とうなんて、冗談にもなりゃしない」
「じゃあ……」
「ちょっと黙っておいで。しかも、あたしたちはみんな足には自信がない。セニャーヴィンが言った通りさ。これじゃどうしようもない」
ニコラおばさんはここで一息ついた。そして、覚悟を決めて、口を開いた。
「降伏しよう。みんないっしょに。戦ったって、ただ沈むだけさ。あたしはもう十分生きたが、この子まで道連れにして全滅するのはかわいそうすぎる」
「そんな！ やだよ！ あたしたち、何のために苦労してここまで来たんだよ！わざわざ暑い思いして、痛い思いしてさ！ここで降参するなんて、そんな、そんな……」
「イズちゃん、あんたの気持ちはわかるけどね、世の中にはどうしようもないことがあるのさ」
「そんなあ、そんなあぁ……」
イズムルードの目からも、大粒の涙がぽろぽろこぼれ落ちた。こぶしでそれをぬぐうと、砲煙で黒くなった顔にまだらの横筋が走った。
日本艦隊は、射撃距離にまで近づいていた。ニコラおばさんは大声で叫んだ。
「日本の方！あたしたちは、降伏する！」
その声は、日本艦隊にもはっきり届いた。三笠を先頭に一列に並んだ12人の娘たちは、その声を聞いてさっと表情が変わった。その表情は、一様ではなかった。
朝日が言った。
「三笠ちゃん、どうするの？」
三笠は何も答えなかった。
「三笠ちゃん、あなたが何も言わなければ、このまま戦闘に入るわ。あの人たちが「降伏する」って言ってるのに、それでもいいの？」
「ちょっと待って、朝日ちゃん、あなたあいつらを降伏させる気なの？」
敷島だった。
「あたしが決めるんじゃないわ。旗艦の三笠ちゃんが決めることよ」
「じゃあ三笠ちゃん、あなたに聞くわ。まさかあなた、このままあいつらの降伏を受け入れるって言うんじゃないでしょうね」
三笠は敷島を見た。すごく怒っている。無理もない、だって――
「三笠ちゃん、あいつらはロシア艦なのよ。あの初っちゃんや八島姉さんを沈めた奴らの仲間なのよ。八島姉さんが沈む時に、無理して最後に笑ったのを、あたし今でも夢に見るわ。それ以来、あの旅順口で、黄海で、鎮海湾で、いつか仇を討つんだって、必死で戦って、必死で練習したのを忘れたの？」
三笠はなおも無言のままだ。
「今こそ、初っちゃんの無念を晴らす時よ。あいつらを一隻残らず叩き沈めて、やっとあたしは、あたしは……！
ここであいつらを見逃したりしたら、あたしは初っちゃんに何て言ったらいいの！」
三笠は敷島に何も言わなかった。そのかわりに、後ろに続くみんなを見渡して、ひとことだけ口にした。
「打ち方始め」
ロシア艦隊の周囲に水柱が立ち上った。
「いやあっ、おばさん、こわい！」
アリョールがニコラおばさんにしがみついた。しがみついたまま、耳をふさごうとしてニコラおばさんの胸に耳を押しつけるが、片方の耳がふさがるともう片方から砲声が聞こえてしまう。そっちをふさぐともう片方から聞こえてしまう。どうしていいかわからない。かたかたと体中が震えてしまう。涙があとからあとからわいてきて、顔中べたべただ。
イズムルードも、ぐすっ、ぐすっとすすり上げながら、ただ泣いているばかりだ。
セニャーヴィンもアプラクシンも、ただ呆然として自分たちの周りの白い水柱を見つめている。
しかしニコラおばさんは落ち着いていた。
「大丈夫だよ、アリョールちゃん。みんないっしょだからね。
――日本の方！私たちは降伏すると言ったはずだ！撃つのをやめておくれ！あたしなんかはどうなってもいいさ。でもね、こんな小さな子がこわがって泣いてるんだ。もう戦いはたくさんだよ！もう戦いはあんたたちの勝ちさ！もう決まってるんだ！だから、この子にもうこわい思いをさせないであげてくれないか！」
こらえきれずに朝日が言った。
「三笠ちゃん！」
すかさず敷島がきっと朝日をにらみつける。
もう一度朝日が言った。
「ねえ、三笠ちゃん！」
「あのう」
三笠が答えないのを見かねたのか、うしろの方でおずおずと声が上がった。
日進だった。どうしたのか、両手を包帯でぐるぐる巻きにして、鼻の頭にばんそうこうを貼っている。敵弾を食らったのは別の場所のはずだから、きっとつまずいて転びでもしたのだろう。
「ええと、うちも撃つのんやめたら……」
春日も口を出した。
「うちも……」
しかし、三笠・朝日・敷島の周りはとうてい二人の入り込めるような空気ではない。富士がやんわりと言った。
「あなたたちは、うしろにいてね」
「はぁーい……」
そのまま無言の時が過ぎる。
ロシア艦隊を見ると、もうみんな歩くのをやめて、その場に座り込んでいる。先ほど降伏を告げた艦に、小さな子がしがみついてわんわん泣いている。
ついに三笠が口を開いた。
「打ち方止め。降伏を受け入れます」
「ええっ！」
敷島が三笠の肩に手をかけて握りしめる。
「お願い、もう少し、もう少しなのよ！三笠ちゃん、ねえ三笠ちゃん！」
三笠はその敷島の目をじっと見て、話し始めた。
「敷島ちゃん、聞いてくれる？
……あたしたちが出撃する前のことを思い出してほしいの。そう、まだついきのうのことよ。
あのとき、今日までみんながいっしょにいられるなんて思ってた？
……あたしは思ってなかった。鎮海湾を出るとき、ああ、これでもうみんなとはお別れなんだ、もし万一あたしが沈まずにすんだとしても、もうみんながそろって練習することはないんだなあって、そう思ったのよ。
たぶんあたしは沈むだろうし、朝日ちゃんも、敷島ちゃんも沈むだろう。春日ちゃんや日進ちゃんが大丈夫だとはもっと思えない。富士姉さんだってどうなるかわからない。そう思ってたの。
そりゃ、勝たなきゃ、ってのは思ってたわ。何がどうなっても、勝たなきゃいけない。でも、勝利の栄光だとか、凱旋だとか、そんなことはこれっぽっちも考えなかった。それより、みんなといっしょにいられなくなるのがさびしかった。沈む時はみんなひとり。沈まなくても、みんなとはお別れ。それがさびしかったのよ。
いま、あたしたちは信じられない勝利を目の前にしている。みんなひとりも欠けずに、あれだけ強そうに見えたロシア艦隊をあらかた沈めてしまって、残ってるのは目の前にいるあの人たちだけ。
でもどう思う？あたしたちってそんなに強いのかしら？ついきのうまでは、たぶんみんな沈むだろうと思って覚悟していたのじゃない？まだあれから２日もたってない。あたしたちの気持ちって、どっちに近いのかしら。勝利の栄光に包まれた無敵の艦隊みたいなものと、目の前のあの人たちと。
あの人たちに現実に起こったことを、あたしたちもありありと自分のこととして想像することができるわ。その上で、あの人たちが、もう戦いはやめにしよう、って言ってきている。それをはねつけることは、あたしにはできない」
しばし、誰も口を開かなかった。
春日がぽつりと言った。
「せやなあ、あそこにおるんが鎮遠ばあちゃんと朝日姉ちゃんやったかもしれんわけやさかいなぁ」
……敷島は、三笠の肩を握りしめたまま泣いていた。
朝日がロシア艦隊に声をかけた。
「降伏を受け入れます！機関を停止したままでいてください！砲に俯角をかけてください！今からこちらの人員をそちらに乗艦させます！」
朝日は人員を移乗させるためにロシア艦隊に近づいた。旗艦にしがみついた小さな子は、恐怖に大きな目を見開いたまま泣くのも忘れて朝日を見つめている。
「大丈夫よ、お嬢ちゃん。戦いは終わったの」
「おわ、った……？」
「そうよ。これからお姉さんのおうちに一緒に行くから、ついてきてね」
「おうち……？」
「そう。舞鶴ってところよ」
「おうちじゃないよ……。おうちは、リバウだよ」
「だから、お姉さんのおうち」
「リバウのおうちに帰る」
「うーん、リバウのおうちには帰れないかもしれない。でも舞鶴もいいところよ。おけがも治さなきゃ。舞鶴でゆっくりおけがを治して。ね」
「おうちにかえりたい」
そこへ、浅間が顔を出して言った。
「おうちに帰っても、お友達はいないんだよーお」
それを聞くと、小さな子――もちろん、アリョールのことだが――は、見る見る顔がくしゃくしゃになって、また泣き出してしまった。
「浅間ちゃん！よけいなことを言わないで！」
朝日は浅間をしかりつけると、アリョールに向き直り、アリョールの目の前にしゃがみこんだ。
「大丈夫よ、お嬢ちゃん。お友達は少なくなったけど、今度はお姉さんたちがあなたのお友達になってあげる」
「いっく、いっく、おともだち？」
「そうよ、お友達。お姉さんたちみんなが、これからはお嬢ちゃんのお友達よ。だからこわくないのよ」
「みんな？」
「そう、みんなよ。みんなで一緒に舞鶴に行って、おけがにお薬塗って、そうだ、お洋服びりびりになっちゃったから、新しいお洋服もあげる。お姉さんたちがついてるから、何にも心配いらないわ」
「うん……」
「じゃ、一緒に行きましょ。舞鶴に。……手えつなぐ？」
「……うん」
「じゃ、行きましょ」
「……おねえちゃん」
「なあに？」
「おねえちゃんって、日本のおふねなのに、おかおがへんじゃないね」
「お顔？ ああ、お姉ちゃんはね、イギリス生まれなのよ。だからかな」
「そう。あたしのしんせきはね、フランスうまれなのよ」
「へえ、そうなんだぁ」……
アリョールは朝日に曳航されて、舞鶴へと進路をとった。
（その間にイズムルードは逃げてるんだが、そこまで書く気力が尽きた。とりあえずここまで。前後の話を書くかどうかは未定。ちなみに「春日」級が大阪弁なのは「あずまんが」の影響ではない。イタリア製だから何か変えようと思っただけである。「大阪」との一致はそのあとで気づいた）
追記：
まともな日本海海戦についてのページも作ったので、ぜひご来訪ください。
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